博士課程で学んで、人生に役立っていること

最近このような記事を読みました。

世界最先端の教育はこんなことになっている! 日本とは何もかもが絶望的に違う・・・

記事で触れられたシンガポールで私が教育関係の仕事をしていることもあり、興味深く読みました。タイトルや内容の端々で煽るのは美しくないと思うのですが、そこは議論しないことにします。この記事を契機にして「はたして良い教育とは何だろうか」という問いに、自分なりの考えを書きたいと思います。

「教育の目的とは何だろう」という問いの答えは様々ですが、「その後の人生を生きやすく、豊かにすること」というのが私の今の答えです。この答え自体は抽象的で、あまり何も言っていないのですが、抽象的であるがゆえに様々な捉え方ができます。人生を生きやすくする、という方向で考えると、こちらの記事では「具体的な知識やスキルを身につけさせることで、その後の人生を生きやすくしよう」と考えていると解釈しました。一方で私は「自分がやっていること、知っていることが何であっても、その価値を信じる力とか、説明できる力をもって、その後の人生を生きやすく、豊かにしよう」と考えています。ますます抽象的になりましたが、もう少し説明したいと思います。

こちらの記事で「これが良い教育」とされている内容は、大衆化・コモディティ化しているか、そうなる過程にあるもので、既に価値が認められつつあるものです。これらはスキルであり知識であるので、身につければ便利なことも多いのは疑いません。一方で、基本的には読み書きそろばんの延長ですので、時間が経てば陳腐化するものですし、仰々しく騒ぐ性質のものではありません。何よりも私が心配するのは「これらができないと幸せになれない、遅れてしまう」という考え方であり、マインドセットであり、精神性です。

ハーバード、ボストン、シリコンバレー、シンガポール、インド、英語、留学、プログラミング、3 次元プリンタ、バイオテクノロジー、何でも良いんですが、多数決で「価値がある」と言われることに「価値がある」と同調するのは簡単なことです。自分の言ったことが理解されやすく、共感も得やすいからです。深く考える必要もありませんし、反論されても意見を守る必要がありません。自分以外のところで価値が決まっていることだから、その考え方に対するオーナーシップもありません。これは精神的な安定には良いのですが、このような考え方を続けていると、自分で自分の幸せ(価値)を持たない大人になるのではないか、心配もします。

繰り返しますが、私は教育の目指すものは「自分がやっていること、知っていることが何であっても、その価値を信じる力とか、説明できる力をもって、その後の人生を生きやすく、豊かにすること」だと思います。自分の幸せを人のルールに決めてもらわないこと、人の決めた価値の基準にただ乗りしないことは、実は容易いことではありません。「シリコンバレーで良いとされてること」があれば、その価値観を受け入れる方が楽だと思います。しかし私は若い人にも年をとった人にも、それに留まらないで欲しいと思いますし、その方が幸せになれると思います。ルイ・ヴィトンの新作が出るたび、それを持ってないと不幸に感じる人生と、自分の好きな少数のカバンを大事にする人生、どちらを選びたいか、という話です。私には後者の考え方の方が合っています。

世の中には、世界で数百人くらいしか興味がないことに興味を持ったり、誰にも賛成されなくても、自分の選択の面白さに自信を持てる人がいます。博士課程で留学していたときは、周りにはそんな人が多くて、彼ら、彼女らと話すのは本当に楽しかったです。周りの日本人に限っても、小鳥が歌を覚える過程に興味を持ったり、宇宙で物を運ぶロジスティックスについて考えたり、人間の言語習得のプロセスに普遍性はあるのかなどと考える、様々な友人がいました。自分は小さな泡の作り方を考えてました。「自分がやってることが、何故大事なのか」は自分で決めて良かったし、自分で決めなくてはなりませんでした。もちろん独り善がりではいけません。その価値を他人の批判にさらして、叩かれて、考え方を調整し、それでも価値があると信じれるようにならないといけません。これは実は大変なことなんですが、慣れると様々なものから自由になれて心地良いとも思います。

「自分でテーマを見つけ、その価値を説明できるようになる」というトレーニングは、博士課程の間に行われたことですし、その後の研究活動でも行われています。我々は論文を書くのが仕事の 1 つですが、技術的なことを書く以外に、その仕事の価値を説明する必要があり、そちらの方が難しかったりします。その際、常に指導教官と議論したのは、

1. What is new
2. Why it is important
3. Who cares

という 3 点です。とりわけ 2 と 3 は難しいのですが、意見を交換することで、いずれ自分の言葉で説明できるようになります。このやり取りは「自分の価値観を持つ」練習として適しているのではないか、と思います。「3 次元プリンタが大事だ」と、どこかで生まれた価値観を自分のものとして語るのとは、少し違う難しさがあります。(もちろん、ここで自分が決めた why it is important だって、狭い研究者コミュニティーの間で認められている価値に、意識的に、無意識的に乗っかっている危険性はあります。それは注意するところだと思いますし、本当にそこから自由になることは難しいと、いつになっても感じると思います。)

このトレーニングが特殊な点は、研究活動の前提にあります。そもそも研究とは新しいことをやるという性質がありますので、それを肯定する支配的な価値観が成熟していない場合が多いのです。だからこそ、自分の価値観を提示して、それを守る必要が出てきます。もちろん会社に就職した場合でも、上司や同僚と同じようなやり取りがあるのかもしれません。ただ企業の場合「経済的メリット、利益があるか否か」がアプリオリで(先天的な、有無を言わさず正しい)支配的な価値観となるのではないかと思います。経営者ブログなどで「ゼロベース」と書いてあるのを見たことがありますが、経営者の立場で「利益の寡多」についてまで「ゼロベース」にして決断することは難しいんじゃないでしょうか。そういった支配的な価値観が外部にあるかないかの違いは大きいと思います。その観点では、大学での教育や研究活動が提供できるユニークさは、アプリオリな価値観をできるだけ排除した状況で、自分の価値観を育める経験なのだと思います。

「誰にも認められないかも」という心配をしながら、自分の価値観や意見を持ったり、それを公言するのは、大変なことだと思います。大上段に構えたことを書きましたが、私は今も自分の意見を言うときに心配するし、批判されて落ち込むこともあります。自分の価値観を持つことや、それ以前に、自分は自分の 価値観を持っていいとか、持つ必要がある、と思うことだって、一朝一夕にできることではないと思います。だからこそ、博士課程や研究活動を通じて、「自分は自分の考え方を 持つ必要がある」という課題設定を明確にした部分から始まり、新しい意見を表明して、批判され、受け入れらてきたという経験は、研究を超えて、人生を豊かに生きるトレーニ ングになっています。

少し話が広がりますが、大学の役割の議論をする際に「大学を職業訓練学校にしよう」という意見にいつも反発してしまうのは、上記の理由があります。学部生でも院生でも、文系でも理系でも、勉強ができてもできなくても、経済的な価値観とか、多数決で支配的になっている「役に立つ」という価値観以外のものを育む、良いチャンスを大学は提供できるからです。(もちろん大学での活動に経済効率や社会的意義を考慮する余地がないわけではありません。企業ほどシビアな判断ではないと思いますが、工学系では研究費獲得の際に「どのように社会で役に立つか」を明確に描くことが求められます。)いずれにせよ、多くの人にとってその後の人生でずっと「儲かる」「役に立つ」が支配的な価値観になることを思えば、せめて大学をそれ以外の価値観を優先して育む機会にすることを認めても良いんじゃないか、とも思います。教育関係者としての立場では、そういった価値観の差別化(多様化)こそが、大学を含めた教育機関の役割ではないかと思います。

今年ノーベル物理学賞を受賞された梶田隆章先生が、テレビの取材で「先生の研究をどのように役立てたいですか」と聞かれて困惑した、という一幕があったそうです。インタビューした方が「役に立つ」という言葉にどういう価値観を含めたか知る余地はありませんが、それがもっと幅広いものだったならば、より面白いインタビューになったのではないかとも思いました。

私の悪いクセで、少し話が発散してしまいました。まとめますと「教育の目的とは何だ」という問いに対する私の答えは、「その後の人生を生きやすく、豊かにすること」です。そして、生きやすい人生とは、多数決で決まった価値を自分が得られなくて絶望することにはなく、自分が決めたことに価値を見出すことにあるのだと思います。昨今では様々な評価をされている博士課程ですが、私はその期間に「人生を生きやすく、豊かにする」基礎的な考え方を育むことができたと思っています。

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(追記)博士課程の話の続き

2 thoughts on “博士課程で学んで、人生に役立っていること”

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